1年ぶりくらいにソーシャルメディアの話を。
Yahoo!個人に投稿されたえふしん氏の記事「Facebookのタイムライン制御に対する不信感」
「ロボットの話おもしろいなー。あー分かる分かる、ハイライトじゃなくて最新の投稿だけのほうが良いよな」などと思い読み進めていたところ、最後に表れたコメント欄は謎に燃え上がっておりました。多少分かりにくいかなとは思いますが、大変厳しい駄文認定に動揺を隠しきれません。なんでそんなに怒っているのでしょう。
おっさんが作ったものにおっさんがツッコミをいれ、おっさんがdisるというもうおっさんしか存在しない絶望の世界を垣間見た気がします。こんな記事もありました。
Facebookは「オジサン」のツール? 女子大1年の半数がアカウントなし、「LINE」が主流に
女子大の授業でLINEを導入してみた!そして学生たちのFacebook利用率が低い理由とは?
という冗談は置いておいて…。えふしん氏の記事はざっくり言うと「Facebookのニュースフィードは、Facebookが作ったエッジランクによって制御されていて、それが気持ち悪い」的な内容になっております。
誰でも発信できる時代、情報量は日々増え…という枕詞はもういらないほど、情報を取捨選択する必要性は周知の事実なわけです。記事にもあるようにFacebookがやっていることはGoogleと大して変わりません。なのですが、ソーシャルネットワーキングサービスもそうあるべきなのかと言いますとそれはそれで話が違うように思います。個人的にはえふしん氏の話にかなり共感しています。
ユーザーがある何かを求めて、求めたものに関する情報をシステムがキュレーションするのがGoogleです。SNSでは、友人のアップデートが知りたいというというざっくりした要求がユーザーにはあります。そこには、具体的にこういうのが知りたいというのはありません。人は多くの場合、自分の欲しい情報を知らないのです。
Facebookではハイライトと称し、それに答えます。Facebookが作ったエッジランクという評価システムによって投稿にウェイト付けがされ、おもしろいでしょ?話題だよ?関係あるよね?知りたかったでしょ?と薦めてきます。そこにFacebookの限界というか気持ち悪さがあります。Facebook上の人間関係というのは、Facebook上の一部情報の投影です。システムに反映されていない人間関係はないようなものです。仲が良くない知人の結婚と親友の昼飯は同じくらいの重要度ということもあります。情報が欲しくてページに「いいね!」したのに何も流れてこなかったり、アクションはしないまでも気になる人がいたり、仕事の付き合いで友人になってコメントしてるけどできれば死んでほしいとか…様々なケースがあるわけです。
この辺り、複雑な人間関係を一言に「ソーシャルグラフ」と表現してしまったボロが出てきたのだと思います。それがFacebookのビジネスモデルであり、Facebook離れの原因のひとつであるかと思います。感動を呼ぶ投稿で「いいね!」集めに走るのは分からなくはありません。だって表示されないもん。
その点、Twitterは全てのツイートを並列に扱うので民主的とも言えます。最新情報にのみフォーカスし、全ての情報は追い切れないと開き直らせます。重要なものはRTで回ってくるだろう、と。まぁそれもフォローしすぎると何がなんやら分からなくなってくるのですが、Twitterの場合、ユーザーがそれを分かって使っているので、そこにストレスはないように思います。ただしあまりに民主的すぎてビジネスとして成立させるのは難しそうですね。実はFacebookも最新情報に切り替えられるのですが、ディスプレイの中でも分かりにくいところにあり、アプリではかなり隅の方に追いやられています。スマートフォンを使ってスキマ時間で見るわけですし、話題の投稿を表示すれば反応率も良いということなのでしょう(PCでFacebook見てる人はウェブ系の人かおっさんくらいなのかもしれませんよ)。そうなってくると自分がどのコミュニティに属しているのかよう分からなくなりますね。
「ソーシャルグラフ」と書きましたが、このエッジランクキモい問題は友達が500人、1000人もいるから起こるような気もしなくないです。友達の数は150人が限界なんて言いますよね。150人くらいだったらストレスはないかもしれません。月日が経つにつれ交友関係は変化します。それに合わせてソーシャルグラフを定期的にリフレッシュすることができないのが問題なわけです。嫌味なくソーシャルグラフをリフレッシュできるサービスがあれば超最強だと思います。
一度会ったら友達、毎日会ったら兄妹、そんなサイケな歌が昔ありましたが、友達って一体何なんでしょう。その点Google+はサークルという機能でソーシャルグラフを使い分けよう!と訴えるのですが、ただただ面倒です。まぁ人それぞれ色々な使い方があるよね!というクソみたいな結論になるわけですが、サービスとして、色々な使い方ができるという時点でもうすでにダメな予感がします。
引用します。
彼らは、ネットに対する情報露出については、強い制約を感じている人が多いようだ。今の20歳前後の人たちにサービスを提供する時の方法論としては、「シェアが当たり前」として触れるべきというのがあるのだが、実は、そのシェアが当たり前には条件がいくつかある。
・「シェアする相手を意識している」
・「シェアする理由が必要」僕のようにネットが存在してみんなと繋がってること自体に喜びを感じるわけではない。何故ならそれがあたりまえだから。なんでもかんでも、あらゆるSNSに共有することはない。
このあたりの世代というのは「みんなと繋がっていること自体に喜びを感じる」のでしょうか。それはなかなか新鮮と言いますか、古き良きインターネット的だなぁと、ジェネレーションギャップのようなものを感じました。
それは良いとして、これは本当におっしゃるとおりで、シェアが当たり前だからこそ、何に使うか、誰と使うか分からないものは使わないのです。何にでも使えるものは何ができるか分からないという解釈をされます。ポータルから単一機能へ、みたいな話ですね。特別な機能があるか、利用シーンが特定されているか、明確なソーシャルグラフなど、とにかくハッキリさせる必要があるのです。スマートフォンが登場して特にこの傾向が強くなったように思います。
デジタルサービスというのは往々にして機能が増えがちですが、UIデザイナーとしては全力で阻止していきたい所存でございます。
まぁFacebookもわかっちゃいるんでしょうけど。
Facebook、「Snapchat」にひとひねり加えた新アプリ「Slingshot」で再挑戦
Facebookはオワコン、Twitterも成長に陰りなんて聞きますし、しばらくこれからのソーシャルネットワークについて考えてみたいと思います。
一度実験的にnoteに書いてみたのですが、結局流入元がソーシャルメディアならブログでいいじゃねえかということで。こちらで再掲。編集追記あり。数回に分けて、これからのソーシャルメディアを語っていきます。音楽とソーシャルメディアの関わりについてもどこかで触れます。
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